昭和44年03月23日 春季霊祭



 おかげを頂きまして春の御霊祭りを無事に終了させて頂きました。これは霊祭をこうしてお仕え致します度毎に実感するのでございますけれども。いよいよそれを思うのでございますけれども、本気でお互い魂の清まりを、願わして頂く信心をしなければならないと言う事でございます。これが御霊の働きとか御霊の世界とかと言った様なものを、お互いがまぁおぼろげながらでも分かりました。又は段々それが分かって参りますと分かって参ります程に、御霊としての働きが出けれるおかげを受けなければならんなと。
 為には私共がこの世で力を受けておかなければなりません。この世で本気で魂を磨いておかなければいけんのです。ですからその事を思うのですがね。今朝からの御理解の中にも、狐狸ですら神に祀られるということを喜ぶと言うではないか。まして万物の霊長たる人間が死したる後、神に祀られ神になる事を楽しみに信心せよと仰せられます。ところが果たして神になる事を、神に祀られる事を楽しみに信心しておる者が、果たしてどの位あるだろうかということです。皆さんどうでしょうか。
 神に祀られるということを、また神になられるということを楽しみに信心しておる。それはおかげを受けなければならんから、信心をしておるというのが、まぁ大体殆どじゃなかろうか。そうじゃないに致しましてもです、いわゆる御霊になるということ、御霊に祀られるということを楽しみに信心をするということ。そこんところがもらえそこんところに焦点が置かれるようになると、信心がいよいよまぁ本筋というか、本格的な信心が出けて来る様になる。
 先日からもいわば玄人の信心と言う事を頂いたんですけれども、玄人というのはいわゆる苦労ですけれども、それは金光様の先生という意味じゃない。金光様の先生の中でも素人以下の人がある。御信者さんでもやはり本当に信心の高尚な玄人の方がありますね。その信心の一つ玄人を願わなければいけん、玄人にならなきゃいけん。それは長年信心しておるとか詳しくなったということが、玄人ということじゃないのです。ですからここのところを一つ本気で分からせて貰わなけりゃいけません。どうでしょうかね。
 死ぬるということこれはもう事実現実なんです。私共が今朝から私がお知らせを頂いておる、それから久留米の佐田さんがお知らせを頂いておられる事が、はぁあんたもそんなお知らせだったんですかと言うて、まぁお互い二人で話し合ったんですけれども。とにかく大きな御門がこう開かれる。その御門が開かれるのですけれども、それが丁度あのうお城ですかね。お城の入り口のように行き渡っちゃまた道がこう曲がっておる。こう砦がずっとありますから道が分からない、先の方が分からない。
 けど門が開くということだけはもう事実なんです。というのは私共があの世に誕生するとでも言うか、死ぬるということはもう動かせない、これはもうどうにも私共の力じゃ出来ない事なんです。だからこの死ぬるというその事実をですね、もう死んだ時にはもう死んだ時たいとね。後はどうとかなろうと言った様なものではない。死んだ先までも持って行かれるとかね、死に際にもお願いをせよとかとこう仰る。なぜ死に際にまでお願いをしなければならない。
 そこんところをですいわゆる狐狸ですら、死したる後神に祀られるということを喜ぶと言うではないか。まして人間は万物の霊長であるからね、死したる後神に祀られ、神になり神に祀られる事を楽しみに信心せよ。だから金光様のご信心はここんところですね。神になるということを楽しみに信心しないと。此方ばかりが此方の事を神、神と言うけれども、皆んながこの様なおかげが受けられる。此方がおかげの受け始めであって、とこう仰るのです。だから金光様のご信心は、そういう神になる稽古。
 しかも神になる稽古をさせて頂いて行くところからですね、この調子で行けば神になれるぞと、神に祀られるぞと確信が出けて行くところにです、いわゆる金光教的死生観ね。例えば安心と言う様なものが頂けるのじゃないでしょうか。今朝日曜ですから特別奉修委員の方達の、御祈念の後に頂きました御理解の中に、私が座ってすぐに頂きます事がね。「すいませんがそこのカーテン上野さん閉めて下さい。目が光っていけない。うんはい向こう向こう。」
 蓮の台(うてな)と言うが蓮の台とは、安心のおかげを受ける事だということを頂きました。蓮の台で極楽に行っておる人達の、まぁ蓮の花のいわゆる台(うてな)の上でその助かっておると言うかね。いわゆる極楽に行っておるというそれは、安心のおかげを頂く事だとこういうことです。ですから安心のおかげを頂く為にはです、私共がどうしてもね、死したる後神に祀られるとか、死したる神になるということを確信出けれるような信心を頂かなければ、その安心は生まれて来ません。
 信心をさせて頂いてね、例えば百万長者になれと。はぁ信心したらいつかは百万長者になれるだろう、いつかは百万長者になれるだろうと言うて、いよいよ貧乏のまま死んで行くと言う様な事では詰まらんでしょう。金光様の信心を頂いておれば、いつかは神になられる。死んだら必ず神に祀ってくれる。なるほど遺族の者があぁ家はもう改式をしとるからね。ちゃんと御霊様にお祭りをしてくれるそれだけはしますよ。けれども神になるということは別なんです。
 御霊様にお祀りをしてもろうたということで、神になるのじゃないのです。この世で神になる稽古をしとかなければなりません。ですから百万円の分限者百万長者にならせて頂くならです、例えば十万円貯まって有り難い、二十万預まって楽しゅうなる。はぁこの調子で行きゃ三十万になり四十万になり、この調子で行きゃ百万長者にもなれるぞというところから、百万長者になれるとこう確信が出ける。私共の心がです段々信心を頂いて、まぁ言うなら我とわが心が拝めれるような状態。
 いつもが有り難い。そういう有り難いという境地を開かせて頂き、そこから生まれてくる、それに伴うところの体験。金光様の信心の有り難いというものにゃ、必ずおかげが伴うのです嫌ちゅうてもね。だからいかに口で有り難い有り難いと言うておっても、また有り難いと道を説いておってもね、説いておりながらおかげを受けていないならば、そのおかげはほんなものじゃない、有り難いのじゃないと。
 金光様のご信心は私共が本気で有り難くならせて頂いた、その有り難いというものに、必ずいわゆる真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始めが始まって来るね。ですから私共がいよいよ心を清めさせてもらうことにね、本気で信心に打ち込めれる。そこからやはり確信と言った様なものが生まれて来る。この調子で行けば百万長者になれるぞと。いっちょん貯まりよらんなりいつかはなるじゃろう、信心しよるちと言った様なもんじゃない。信心しよるけん死んだら神に祀って貰え神になれるんだと。
 そういうことでは実際は楽しみ楽しい事はない。楽しみに信心せよとこう仰る。ですから金光様のご信心を頂いておる者が果たしてです、神に祀られ神になる事を楽しみに信心をしておる人が、どの位あるだろうか。そこの楽しみがあるから様々な難儀も難儀と思わんで済む、辛抱もしよか訳です。こうして神様になる稽古をさせて下さるんだと思うから。私共がこの世で力を受けて、そして人が助かる事の為に奉仕をする、そういう信心をさせてもらう。ように私共も御霊にならせて頂いてもやはり御霊の力を受けて。
 そして沢山な御霊様立ちのお導きが出ける様なおかげ。又は家の守り身の守りが出けるようなおかげ。御霊様がね段々おかげを頂いてお見えになられますと、やはり力が出けていきますと、これは先日あのう日田の山の奥の方から、文田さんていう方が参って見えます。そこの改式祭て言う訳じゃないけれども、お父さんとお母さんの合肥碑祭が行われました。そん時に確か頂いた御理解だったんですけれどもね。そのう御霊様の働きと、人間のいわゆる氏子の働きという、人間の働きというものはね。
 御霊様でなからなければ出けないことがあるち。これは人間でなからなければ出けない事がある。そこで御霊様と私共がいわゆるあいよかけよの働きになって来なければです、いけないというお知らせを頂いた。ですからその御霊の働きというものをですね、私共が信じる訳にはいけないおかげを頂きますけれども、本当にそこにはですね、もうあのう何と言うですかねぇ。目には見えないけれども、御霊ながらの働きというものをです感じます。先日もここの総代の久富さんがお夢を頂かれた。
 ある難儀な問題を抱えておった事であった。その時に頂かれたんです。お夢の中で自分が一生懸命、あのうポンプの水を汲んでおられるけども、ポンプが固くてね水が上がらない。そしたら亡くなられたお母さんの御霊様がね、出て来なさってから、あたいが加勢しょうちからちいちゃんが。そしたらどんどん水が上がってきたという。これなんかは人間の力ではどうにも出けないところを、御霊様が働いて下さっておる印のようなもんですね。これはまぁ久富さんの事夕べもそうでした。
 夕べ私は一睡も致しませんでした。ですからこんなにまぁスムーズに御霊様のお祭りが出けるわけですけれども。もう私がここに遅う、茂さんと秋永文男先生が、まぁ付き合いをしてくれて晩遅うまで起きておりました。だからまぁあんまり遅うなるから、もうならぼちぼち私は御神前に出ろうと言うて、二人は休み皆んな休みましたと思って、私御結界にまず着かせて頂いた。しばらく御結界でご奉仕させてもらいよりましたら、久富さんがこうやって見えた真っ暗だった。
 そしてここで出て来てから一生懸命御祈念をなさる。はぁ今ごろから出て来て御祈念しなさったっちゃ私は困るけれど。今日は御霊様のお祭りだけは、もう誰にも煩わいされたくない。もうここにひょいと人がおると思うただけでもいけない。それで御祈念しござるから言う訳にもいかんから、御祈念の終わるまで私はジーッと待たせて頂いておったら、御祈念終わられてまぁそれこそ一言もなしに、スッとこうもう帰られた。
 それから私御霊様の今日の御霊様のお祭りのスムーズに出けますように、まぁその事の御祈念をさせて頂いた。今朝からです久富さんが朝の御祈念の後にお届けをされますのに、先生昨夜はもう本当に親先生が御霊様へのご挨拶があるから、後ろからね黙って静かに御祈念をしとりゃ良かろうから、まぁ及ばずながら後ろ祈念をさせて頂こうという気持ちで、お広前に出て参りまして暫くその事を神様にお願いをさせて頂きよりましたらね、「下がれ」という意味の事を頂かれた。お広前を下がれ。
 それであの先生にご挨拶をせずに、私が休ませて頂きましたところが、休ませて頂いて今朝の御祈念の時間まで、ずぅうっとそれはそれは有り難い事である。もう先ずそのうもう男女ですね、年寄り若い者もう沢山などれだけあるやら、数が分からない程の御霊様達がですね、休んでおられる時間の間ずうっと、そのお広前に参集して見えるところを頂く。私が接した御霊様、私が言うても皆が本気にしないかも知れんけれどもです。
 そして久富さんのお話を頂いてみると、なるほど一晩中かかってから御霊様の、その様々な御霊様がございますから。それにこうして今日の御霊のお祭りが受けられるように、そういう準備がなぜ必要かと言う様な事が分かるでしょうが。そう言う様な事です。そういう例えば御霊の働きと言う様なのを、私共は感じさせて頂く。だからどうしても私共はやっぱり、一遍はその御霊の列に加わらなければならない。ここの事実をですね本当に分からせて頂いてね。
 その事実をですねもう自分な健康だからと言った様な事じゃ駄目です。先日久留米から井上さんがあぁして熱心にお参りになります。もう今月に入ってからもう実に夢見が悪い。田を植えておると言った様なお夢ばかり。それでそのう是はまぁその縁起でもないお夢を頂くと、そこでそのう思われたんです。最近今あちらでお家の改造があっとります。それをあちらのお婆ちゃんが、もう八十からなられますからお婆ちゃんが、ずうっともうあげんしたいこげんしたいと言う事に、少し反対があった若い者には。
 けれどもねこんなに夢見が悪いから、ひょっとするとねお婆ちゃんがお国替えをさっしゃるかも知れんて。今日参って見えとるから思うた訳です子供がね。だからお婆ちゃんの言う通りにひとつさせて頂いて、親孝行させて頂こうと思うたんです。これでもうお婆ちゃんが自分で設計され、自分で頼まれもうお婆ちゃんの言う通りにさせて頂いた、ところがですもう今日まで参って来る度に、たまがる程に順調にスムーズに行く訳なんです。それからその翌日です。
 まぁ本当に親孝行っちゃ有り難い事だと、こう思わせて頂くと同時にです、フッと気付いたことなんです。毎朝自動車でここへお参りして見えられる。これはお婆ちゃんじゃなかった、これはもう井上峰子その人。これは私自身がいつお国替えを頂くやら分からんということだと分かったて。神様が私にお知らせを下さる。お婆ちゃんが年とってあるけん、お婆ちゃんじゃろうて思うておった。
 だからお婆ちゃんのその言う事を聞かせてもろうて、お婆ちゃんの言う通りに、まぁ最後の親孝行になるかも分からんから、それを親孝行しようという気になった。ところがねお婆ちゃんも喜ばれるが、その仕事のスムーズさっていうものは、親孝行っちゃこげん有り難いこつじゃろうかというごと、そのスムーズに行く訳なんです。ところがねお婆ちゃんは増々お元気。けれどもそこで気付かせて頂いたのは、これはお婆ちゃんじゃなかったとこう言う。
 自分自身がねいつどういうことになるやら分からんと、気付かせて頂いたから、はぁ神様はその事を教えて下さっておると思うたから、いつ死ぬるやら分からんと思うて、先ずそれこそタンスの引出しから何から、自分の身の回りの整理を始められた。子供達にもちゃんとそのう、まぁ言うておく事は言うておいて。そしていつお国替えのおかげを頂いても、それこそ死に際にもお願いをせよと仰る、死に際にもはぁ心安しと思うて言うて、死んで行けれる準備の為の、ひと修行をさせて頂こうということになった。
 私はねそういう信心からね、必ず田植えになる様な事であってもね、そこから新たな有り難い道が開けて来るんだとこう思います。自分がもし今今お国替えを頂いたら、どれほどしのものを、あの世に持って行けるかこの世に残しておけるかと、井上さん気付かれてから本気で自分というものを、身の回りだけではない自分の内容の事について、本気で見極められるようになられた。
 言うならいつ死んでも良いというおかげを頂く為に、本気でもちっと信心を頂いておかなければならん、本気で魂を清めておかなければならんということになったんです。そしたらあれこれが非常にスムーズ順調。第一その今の家の改造があっておる事の、そのスムーズさ順調さにはもう驚くばかりである。ここからひとつ皆さん分からなね。私共がその気になって信心をさせてもらう。その気になって今日の御理解から言うならば、神になる事を楽しみこういう信心ならです。
 井上さんがそういう風に思い立たれたと言う様な信心をするなら、必ず楽しゅうなって来る。それは死ぬる事が楽しいこっじゃなかろうばってんね。けれどもですこの調子で行けばねこの様に有り難い心というものを、あの世にもこのまま持って行く事が出来る。その有り難いという心におかげが受けられる。死に際にもお礼が言えれる。今日私は思うた事ですけれども、こりゃ信心がなかってもねそれこそ蓮の台と思われるように、大往生のおかげの受けられ方も世間には幾らもありますよね。信心がなかっても。
 それこ後顔の憂いがないというかね、子供達ももうここまで育ってくれた。家も財産もこれだけ立派になった。もういつ自分は目をつぶっても良いと言う様にです、おかげを受けておる人があります。しかも亡くなる時にはそれこそいつ亡くなりよったやら分からんように大往生。今日はあの朝の御祈念の後に高芝さんがお参りして見えられましてね。高芝さんの奥さんのお母さんの妹さん。だから叔母さんになる訳。九十何歳で昨夜お国替えのおかげを頂かれた。
 その前の日に高芝さんの奥さん達が兄弟沢山おられますから、皆んな揃うてからねそのお婆ちゃん見げ行きなさった。もうそん時にはまぁ峰子さん来てくれた、誰さん来てくれたと言うて非常に喜んでおられた。とても死なっしゃるなんてんちゅうまぁ思わなかった。しかし年が年だからそしてその翌日に亡くなった。もうそれは本当に苦しい事もなからなければ、もうそれこそ立ち木が枯れる様にですね、大往生であったとこう言うのである。だから信心はなかってもそう言う様に、大往生のおかげが頂かれるんです。
 ですから信心を頂いておるから、私はそういうその教祖の神様ではないですけれどもね、あぁ心安しと心安い死という気持ち心でお国替えの出来れるおかげ。そういうそのうおかげというものをです、私達が頂かせて頂く為に。だから信心させて頂く者はそのうどういうことになりましょうかね。そこに難儀があるねそこに難儀があるけれども、その難儀の中に蓮の台を感じさせてもらえれる。言うなら神愛を感じさせて貰えれるという境地を開かせて貰うのですね。金光様のご信心というのはそこなんです。
 そこのところを稽古させて頂く。こういう難儀な中にもこういう困った事の中にもです、この様なおかげが受けられる、またこの様にして神様が自分をいよいよ神になる事のための、ご修行をさせて下さるということが分かって来るから有り難い。そういうひとつ皆さんがそのおかげを目指しての信心。神になり神に祀られるということをひとつ、楽しみになる様な信心をさせて頂きたいと思う。自分達の信心を振り返ってみてね、そういう確信が出けて行きよるだろうかと。
 信心して百万長者になれよと、例えば言われるとしましょうかね。そんなら信心しよれば、いつかは自分も百万長者になれるという、夢の様な事を考えながら、一生を終わっただけではいけないでしょう。それこそ百万円の宝くじを買うてね「、そしてそれが開かれるまでを心の中で楽しむ。これが百万円に当たるなら、四百万円に当たるならと思うて楽しむ。けれどもそれは実に儚いもの。新聞を見てみたけれども当たっていなかった。それでまた買うまた当たった。
 そういう意味でね楽しむと言うならなんだけれども。そういう夢のような楽しみではつまらん。このま、この調子で行けば百万長者になれれるという、確実な私は貯金が出けて行きよらにゃいかん事実。五万貯まった十万貯まった三十万貯まった。これはですね貯めて、貯めてみな分からんということだけど、あのお金持ちの人がたいがいそのう、けちん坊が多いですよね。それはねもう貯まって行くということが、嬉しゅうして楽しゅうしてたまらんのです。だから無駄遣いは出けんのです。信心でもそうですよ。
 自分の心の中に信心の徳というものがある。これは信心の徳であろうかと思われるものがです、育って行っておる楽しみ。それが十万になった二十万になった。この調子で行けばなるほど神に向かっての信心が出けて行きよるのですから、この調子で行けば神に祀られる事が出来るぞ、神になる事もまた容易な事だということが分かる。だからそういう信心をさせてもらわないと。だからその事が楽しみ。神に祀られる事が楽しいということよりもね、そうして貯めて行くということが楽しいのである。
 信心の力が段々出けて行くということが楽しいのである。今日はその次の御理解にね、「三宝様をふむな、三宝様を踏むと目がつぶれる」という。皆んなが先生と言われたりね、お金が貯まったりすると人に頭を下げる事を忘れる。天は高いから頭を打つような事はあるまいと思うけれども、天で頭を打つのが怖いぞと。慢心が出るとおかげを取り外すぞと。そこで私は今日その事を発見させて頂いたっていうか、分からせて頂いたんですけれどもね。その例えば穀物。三宝様というのは穀物の事です穀物の意味。
 言うなら宝様。それを踏むと目がつぶれるとこう。私共子供の時に婆が言いよりました。はぁご飯をこぼしたら、やっぱり畳に落ちたんでもみんな拾うて、それをこぼすと目がつぶれる。足で踏んだりするといよいよ目がつぶれる。足が頭にひっついてしまう、ちゆうてから言われておりました。そのように三宝様というものが大事にするように、信心で言う三宝様というのはどういうことであろうか。もちろん穀物も大事。
 信心でいう宝というのはです、これがお徳のもとでありこれがおかげのもとであり、これが宝のもとであるというそのもとが宝なんだ。例えて言うとです人間関係で言うなら、あの人が私に辛く当たる。悲しい思いをする腹が立つ。だから私はあの人に言うて返さなきゃ、一遍敵討ちせにゃと言った様なものではなくてです。その事事態が宝様なのだ。だからその腹の立つその事をです、腹を立てずにですそれを信心に頂いて行かなきゃいかん。それを踏みつける様な事をすると目がつぶれる。
 せっかく信心する者は肉眼をおいて心眼を開けと仰る。心の眼が開き掛かって来た。この世の中には困った事なんてあるもんじゃない。あるものは全部神様の愛情の現われ、神愛ばかりなのだ、とだんだん話を聞き体験させて頂く度にそれが分かって行くということは、もう既に心の眼が開いて行きよる証拠です。せっかく薄らぱっと位見えるごつなったつが、また踏みつけるもんじゃけんまた潰れてしまう訳。心の眼を開かせてもらわなければ、心の眼を開かせて頂くと今まで困ったとかね。
 あの人があんな事を言うたと言う事がです、それが神様の声に聞こえて参りましたり、それが神様の私に求め給う修行であると見えて来るから、その事が有り難くなる。それが三宝様を大事にする事です。そうしてお徳を受けて行くでしょう。それはあの穀物のように、実が入れば入るほど頭が下がるとこう言うですね。私はそんなもんだと思うておった。信心の徳が段々身について来りゃついて行く程ね。
 私共は言うなら先生と言われるようになりゃ、成程徳を受けて行きゃ行く程、頭は下がるもんだと思うておったけれども。あの今日の御理解を頂かせて頂いておりますとです。そうじゃないんです。自分の心にはぁこれが信心のお徳というものであろうかというもの。言うならばおかげで十万貯まった二十万貯まったと心の中でよ。それが徳なんです。だからそれが頂けたってですね頭が下がらんの。
 だから自分が務めて努力してですね、三宝様を大事にするような心持ちにならせて頂いてね、おかげを頂いて段々言うならこれが徳というものであろうかと。その徳というものとこう感じたならです感じる程に、私は地を低うして行かなきゃいけないと。自分で勤めなければ、私はこの辺のところをね、あの御理解を読んで御覧なさい。徳を身について来れば来る程、頭が下がるとは言うちゃござらんです。身に徳を受けて人から先生と言われたり旦那様と言われたり。言われるようになるとですね。
 人に頭を下げる事を忘れようとしよる。だから徳を受けて来るとです、人に頭を下げる事を忘れて来るんですもん。だから自分自身が徳を受けて行きよるとこう感じたら、力を頂いて行きよると感じたら、いよいよ用心して行かなけりゃいけないということ。ですから自分が勤めて頭を低うして行かにゃいかんのです。頭を低うして行きゃ天で頭を打つ事はない、おかげを落とす事はない。そう言う様にお徳が自分の心の中に、段々蓄積されていく。徳が段々自分の身について来る。
 もちろんそのお徳には自分の心も明るうなるし、おかげもこれに伴うて来るし。自分で感じられる。感じられるけれども頭を低うして行く精進というのは自分である。実が入って来りゃあ入って来るほど頭が下がるという稲穂とは違う訳なんです、人間の徳というものはね。そこんところを教祖はあの四十五節ですか、そのところに教えておられるように思うのです。そういう生き方こそがですね、そういう生き方こそがどう言う事になるかと言うと、もういよいよ頭が上がらん。
 それがいよいよこれがあの世にも持って行け、この世にも残るものだということが分かって来る。そうするとそれがどうでしょう。本当に楽しゅうなって来ますよね。信心が有り難うなって来る。そしてお金持ちになると、いわば少し汚くなるようにです、私共がね信心の徳を頂いて来るとです、やはりこれは素晴らしい意味合いにおいての、一つの何て言うでしょうかね。何と言うでしょうか。徳の亡者とでも言いましょうかね。お金を貯めてそしてお金を減らすまいと一生懸命。
 もう出すことは嫌入る事だけしか願わんと言う様にです、する事をあれは金の亡者だとこう言うならばです、私共は徳の亡者にならなきゃいけんのだ。ここに頂いた信心を、これを削るような事、減らすような事を折角頂いたこれで天で頭を打つような事をしてはつまらんと思うから、頭を低うせにゃいかん。それだけ小心になる用心して行く。いわゆる神の中を分けて通りおるようなというかね、言うならば薄氷の上を渡るような心持ちで、信心が続けられて行く。そしてこれが貯まっていく楽しみ。
 これがねこれが神になる楽しみであり、神に祀られる元なのです。信心させて頂く者はどうでもここんところをね、死したる後神になり神に祀られるということを、楽しみに信心して行かなきゃいけない。その楽しみが出ける事のおかげを頂く為に、ひとつお互い三宝様を大事にしようと。三宝様を踏むと目がつぶれる。私共がねこんなものとこんな事と思う事がです、実を言うたら三宝様。それがおかげを頂く徳の元なん。それを大事にして行く。それをですね初めの間は辛いけれども。
 それが段々貯まっていき、いわゆる通帳に段々です帳尻が増えて来るとです、もう減らしたくない。自分の信心の徳というものもね、詰まらぬ事で腹を立てては馬鹿らしいということになる。詰まらん事で悔やんだら馬鹿らしいということが分かる。それはもう徳が貯まって行きよる楽しみです。それが神になる楽しみなのですよ。皆さんどうでもひとつここのところのおかげを頂こうじゃないですか。折角教祖の神様は神になる道を教えておられる。しかもあの世で神に祀られ、神になる事の道を教えておられる。
 その道私共が体得しなくてです、只おかげば頂くからただ御理解が有り難いから、有り難いからだけではいけん。その御理解が御理解として血に肉になって、自分の心に貯まって行きよる事が楽しゅうなって来るまでの、信心を頂かなければいけないということなん。それにはです井上さんじゃないけれども、年をとっておるからはぁこれは次々と田植えの夢やら、演技の悪いお夢を頂く、御理解を頂くと用心せにゃとこう言われる。
 もうお婆ちゃまも年だから、いつどんな事があるやら分からんから、ここんところはいっちょお婆ちゃんの言う事を聞こうと思うて、反対しておった事をガラリと変えて、お婆ちゃんが喜んで貰う事だけに一生懸命になったら、お婆ちゃんが喜ばれるだけじゃなかった、思い立ったその事業が、もうとにかくスムーズなのに驚く程であると、先日も親子でお礼を言うておられます。そういうおかげが伴うて来るのそういう心に。
 そしてそこで尚」気付かせて頂いたことは、これはお婆ちゃんじゃなかったというところに、お婆ちゃんも長生きな事になって来た。お婆ちゃんじゃなかった。若い私かも分からないと気付かせて頂いた。そこから身の整理が始まった。こりゃいつまでお生かしのおかげを頂くか分からんけれども、本気で本気で魂を清めとかなければならんぞ、改まっとかにゃいかんぞ磨いとかにゃいけんぞと。
 主人からも良い家内であった、お母さんからも良いお母さんであったと、言われる自分になって行くということに、一生懸命焦点を置いて行かれた。そこからは例えば死の影というか、死の不安と言った様なものが、それこそただ有り難いというもので消えて行ってしもうた。そう言う様に心がねそのいよいよ有り難いことに変わって行かなければいけない。本当にそうなんです。若いから年とっておるからということじゃないです。
 だから私共がいつでもですね、神に祀られるということを楽しみに、神になるということをですね、確信出来れる信心を頂いて行く事に焦点を置かにゃいけません。もうこれはもうあの世での事。御霊の世界の事。魂の世界というものがです、あると信じさせて頂くところから、信心が本当に出けて来るのじゃないでしょうか。それを信じさせてもろうて、必ず一遍は私共もその御霊様の世界に、御霊の列に加わらなければならない時にですね、身の守り家の守りは言うにさらない。教会の礎ともならせて頂こう。
 世の明るくなる事のための、これは御霊の力を持った者でなからなければ、出けない働きをさせて頂けれるおかげを楽しみに、お互い信心させて頂かないと目が薄うなる耳が遠うなる、歯が抜けてくる。そういう例えば厳しい自然の働きという中に、私共が日々お生かしのおかげを頂いて、行きよると言う事はもう言うならば、やはり一歩一歩あの世へ近づいて行きょるという印なんですから。皆さんの例えて言うならばですよ、交通事故とかあげな事は全然ないものにして、はぁ自分な増々反対に若返って行きょるから。
 目は近うなって来た耳も近うなって来たと言う様にですね、そのなって行きよるならば、私は今日言う様な事をせんでも良いですよ。けれども例えば交通事故とか災難とかに遭わないに致しましてもですね、それこそ自然木のように亡くなっていく、いわばそのまぁ正しいというかね、その段階を追いながら年を取って行っておるということを、自分が認めるならです、早くここに気付かなければいけない。私はそう思うですね。そこから私はね本気での魂のいわば清まりということは、どう言う様な事をする事か。
 どう言う様な在り方になる事か。どういうことになれば魂が清まるのか、魂が清まればどういうことになるのか。そこから生まれて来るのが楽しみなのであります。そこから生まれて来るのがです、死したる後神に祀られるということを楽しみにね、神になる事を確信して行けれるのは、そういう私は生き方より他には生まれて来ないとこう思う。折角この様な有り難い教祖様の立てて下さったこの道をです、お互いが頂いておるのでございます。信奉者としてそれをこう信奉しておるのでございますから。
 本当に教祖様が教えて下さる、その事の確信に触れて行くところの信心をです、願わせて頂いておかげを蒙りたいもんだと思います。どうぞひとつ狐狸ですらとね、死したる後神に祀られるということを喜ぶと言うではないか。まして人間は万物の霊長であるから、死したる後神に祀られ、神になる事を楽しみに信心せよと。私はそこんところに楽しみをこの頃感じておりますと言えれる信心。それには私が今申しました様々な過程を通らなければ、楽しみが生まれない。
 いわゆる少ぅしは言うなら貯まって来なければね。働けど働けどわが暮らし楽にならざるじゃ楽しみはいっちょん生まれん。そうでしょう。信心をね、もう何十年もさせて頂いておってもです、これが徳だろうかこれが信心の本当の喜びであろうかというものに、触れられずしもうたんでは、ただそん時そん時のおかげを受けて行くだけでしょう。ですからここんところをです。
 その楽しみが分かるところまでの信心を、お互い極めて参りましたら、後はねもうその喜びをそれで天で頭を突くような事はない。馬鹿らしか地を低うしとかなければおられない。それこそ大地に平伏した信心させてもろうて、限りなく下さる神様のお恵みを受け止めさせて貰わなけりゃ馬鹿らしい。そこに信心の楽しみが感じられると言う様な、おかげを頂きたい。そういう信心を目指して信心をさして貰いたいと言う風に思います。
   どうぞ。